Tentative

おもしろいとおもったことをもう一回かんがえるせいりするまとめる

なにかくか(1)

1.

むかし、mixiが今のようにソシャゲで売り上げがんがんあげてない牧歌的な空気が流れていたころがありました。そのころ、日記(いわゆるブログ)を3日に1回、勢いづいてるころは毎日投稿していたものです。それはもう「毎日あげたんねん」という意地みたいな感情が発動していて、それらの記事の中にはTwitterよりも短い文章で「日記あげた」とか言っていました。そのときの意地はなにゆえに発生していたのか覚えていませんが、その一連の意地は時が経つとそれなりに香しくなるもので意外と価値あるものに変容してたりするものが出てきたりします。そういうものを今も残しておきたいなというのが最初でした。

 

2.

ところがTwitterFacebook時代をふわーんと通過してくると、なかなか「長い文章」というものを書かなくなります。習慣というか、身体行動として慣れない行為になってきます。頭で考えることも身体行動の一つとして考えるなら、それなりの情報量を処理できなくなってくるのではないかと多少恐れたりしちゃうわけです。

 

3.

日常的な感情の発露、ヤバい、反射的なアクション、ため息、ヤバい、感嘆みたいなものを出したい欲はTwitterでまかなえています。反射的なアクション、内容というよりはスピード感、これは驚くほど力がついている、維持しているような気がします。ただ、これに慣れすぎてくると日常会話も脊髄反射のごとく、光に迫る速度を可能にする軽さの内容になっていくような気がするのです(あくまで個人の問題です。頭が悪いのだと思う)。最近本当に悩んでいるのは「含蓄のあることが言えない」ということです。もうそろそろ多少深みのあることを言いたい。

 

4.

「含蓄のあること」とは、つまり「深みがある」ということで、その深みを得る為には「それなりの情報量を処理(思考)する」ことが必要であろうと、少なくとも自分の身体性・習慣としては必要であろうと思いが巡ったわけです。

 

5.

以上のことから、「長い文章を書く」という行為をする動機付け、個人的な思い込みはOKだとして、ではいったいなにを書けばいいのだろうということでしばらく悩んでいました。自分は本当に雑食で生きてきた、とりあえず目の前にあるものを食べないと死んでしまうと思って生きてきたので、実に誠に専門性が低い、誠意のない人間です。だから「鉄道について書こう」とか「映画について」「ラーメンについて「テクノについてプログラム、現代美術、サバの味噌煮、モーターの、身体性、回転…と何かを専門に、的を絞って書くのはまず無理だろうと壁にぶつかりました。その壁までは結構早めに辿り着いていたのですが、なかなかその壁を軽くジャンプする方法が思いつかないでいました...

 

つづく

(この所信表明みたいなテキストが未完成でもブログは投稿することにしました)